完璧な自動翻訳機の開発は、科学技術の永遠のテーマかもしれない。ある国の言語を他国の言語に置き換えることができると、経済も文化も生活も発展する。しかし完璧に翻訳をすることは難しい仕事だ。
そこでIT各社は巨費を投じ、現代の世界最先端技術のひとつであるAI(人工知能)を自動翻訳に搭載しようとしている。
その自動翻訳市場に、あえてAIを使わない「ローテク」で勝負する商品がある。
携帯型の自動音声翻訳機イリー(ili)だ。
イリーの実力や活用方法などを紹介する。
なぜ完璧な自動翻訳機が完成しないのか
イリーはスティック型の自動音声翻訳機で、手の平にすっぽり収まる大きさだ。イリーに向かって日本語で「この近くにおすすめのレストランはありますか」と吹き込むと、0.2秒後に内蔵スピーカーが英語または中国語または韓国語に翻訳して音声を発する。
「日本語→英語・中国語・韓国語」の一方通行で、英語・中国語・韓国語から日本語にすることはできない。
イリーの商品コンセプトの秀逸な点は、現代の自動翻訳機なのに、AIを使っていないところだ。
翻訳はとても難しいから、どの企業もAIを使って乗り越えようとしている。それがいまの自動翻訳業界の常識である。
非AIで自動音声翻訳に挑んだすごさは、翻訳の難しさを知っていると理解しやすい。
翻訳が難しいのは、言語には人々の生活や文化や歴史、性格、思考、心などが凝縮されているからだ。
「犬」を「dog」に置き換えることは、調べれば誰でもできる。このタイプの翻訳は簡単だ。
しかし「痛い」を英語に置き換えることは簡単ではない。それは「痛い」には、小指を家具のカドにぶつけたときの印象の意味もあるし、結婚式のスピーチでダジャレを連発して20分以上話し続ける人の性質も言い表しているからだ。
翻訳が難しい理由は他にもある。
それは言語の「不確実性」だ。言語は概念を伝えるツールなので、どうしてもあやふやさが残る。「黄色」という言葉は、レモンの色も信号機の真ん中の電灯の色も含んでしまう。しかし、レモンと信号機を並べると、まったく違う色であることがわかる。
また、日本人にとって「バナナの色」は黄色だが、熟成していないバナナを食べる習慣がある国では「バナナの色」は緑色だ。
さらに言語は、話す、書く、読む、聞くの4つの機能で理解し、さらに文字という記号も用いる。つまり「黄色」を理解するには、口、手、目、耳のすべてを使ってもいいし、1つでもよい。
もし野球のルールが、「バットを使ってもいいしテニスラケットを使ってもよい」「ボールを打ったら一塁側に走ってもいいし三塁側に走ってもよい」「ボールの大きさは自由」となったら収拾がつかなくなるのと同じだ。
このように言語は「不確実×不確実×不果実×…」で構成される。しかも言語はこれだけ不確実なのに、人はそこに大量の情報量を盛り込もうとする。よって同じ言語を使っている人どうしでもコミュニケーションが取れないことがある。
ということは、言語の翻訳とは「『不確実×不確実×不果実×…』×『不確実×不確実×不果実×…』」という作業になる。だから完璧な自動翻訳機はなかなか完成しないのである。
それでも企業が自動翻訳機の開発をあきらめないのは、得られ果実が大きいからだ。経済や文化を活性化させるだけでなく、世界平和にも貢献するかもしれない。そこで多くのIT企業は、最強の助っ人であるAIを使ってでもこの難事業を成し遂げようとしている。
だから非AIを選択したイリーは、かなりチャレンジングな商品といえるのである。
イリーを開発した株式会社ログバーとは
イリーを開発したのは、東京・渋谷に本社を置く2013年設立のベンチャー企業、株式会社ログバーだ。2017年11月現在でも、従業員は35人しかいない。
しかしイリーは、ヤフー、アマゾン、蔦屋、ビックカメラ、高島屋、東急ハンズなどの名だたる小売店で購入できる人気商品になっている。
ログバーは2014年に、クラウドファンディングで1億円を集め、リング(Ring)という製品をつくった。リングは指輪のような形をしていて、実際に指にはめて使う。リングを指に装着して動かすと、家電が動き出す。リングはいわゆるウェアラブル端末だ。
リングは日本のグッドデザイン賞の受賞を始め、アジアやアメリカでも絶賛された。
しかしよくよく考えてみると、リングの機能はテレビや電灯のリモコンとほとんど変わらない。だからリングに搭載されている技術はハイテクではなく「ローテク」だ。
ところが、「リモコンを指輪型にして、指を動かすことで家電を動かす」というアイデアは、どのIT企業もどの家電メーカーも思いつかなかった。
非AIかつローテクの自動音声翻訳機イリーにも、リングの思想が受け継がれている。
イリーの仕組み
イリーが人気商品になったのは「非ネット」であることも大きいだろう。ネットは非常に便利なので、メーカーはこぞって「なんでもネットにつないでしまおう」としている。それがIoT(ネットとモノ)である。
しかしIoTには大きな欠点が2つもある。
ネットにつながらなければならないことと、ネットにつなぐことは簡単ではないことだ。
そこでイリーは、ネットにも頼らないことにした。
イリーに音声の日本語を吹き込むと、わずか0.2秒で音声の英語または中国または韓国語に変換する。それを実現したのが「ボイスストリーミングトランスレーションシステム」だ。
このシステムの頭脳は、オールインワン・プロセッサという部品だ。プロセッサとは、データや命令を処理するハードウェアであり、CPUと呼ばれることもある。
そしてこのシステムには、膨大な量の言語データベースが組み込まれている。言語データベースとは、「和英辞書」のようなものだ。この言語データベースがあるから、ネット経由で翻訳語を探しに行かなくてよくなった。
イリーの外観は、細長のプラスチック製の箱だ。その上部に親指の先くらいの大きさのボタンがついている。ボタンを押して「トイレはどこにありますか」と話しかけるだけで録音は終了する。ボタンを離すとイリーが「Where is the toilet?」と話してくれる。
イリーはこの小さなボディで、音声認識と翻訳と発話をほぼ同時に実行するのだ。
イリーの限界
イリーが非AI、非ネット、ローテクでありながら自動翻訳という偉業を成し遂げることができたのは、極限まで「そぎ落とした」からだ。
イリーは、「海外の旅行先のちょっとした困りごとだけ」に対応する機械だ。
だからイリーは、海外で「少し」お腹が痛くなってドラッグストアで痛み止めを買うシーンでは使えるが、「猛烈な」腹痛に襲われて救急車で病院に運ばれたものの、重い糖尿病があるので治療には慎重を期してほしいと外国人医師に伝えることはできない。
また、海外のカフェで、イリーを使ってミルク入り砂糖なしコーヒーは注文できるが、コーヒー豆の商社マンが何十トンものコーヒーを買い付けるときには適さない。
――と、このように説明してしまうと、イリーは「大したことがない機械」と思われてしまうかもしれないが、そうではない。
イリーは「多くのものを捨てることで大切なものを獲得した機械」なのだ。
例えば、「海外の旅行先のちょっとした困りごとだけ」に特化したことで、日本語の「高い」を「expensive」に絞り込むことができた。海外旅行では買い物をすることが多いので、「high(位置が高い)」より「expensive(値段が高い)」のほうが頻出単語になる。
また、入力を日本語だけにして、出力を英語、中国語、韓国語だけにした。海外旅行では、こちら(日本人)から頼むことは多いが、向こう(外国人)から頼まれることは少ないからだ。
単に無駄を省くだけでなく、戦略的に軽装にすることで、非AIでも非ネットでも必要な性能を維持しつつ、低価格を実現できた。
イリーは税別19,800円だ。
プロ向けイリーも「少しだけすごい」ところがすごい
イリーにはその進化版、プロ向けイリーこと「イリープロ」もある。基本コンセプトはイリーと変わらないのだが、より高度な内容の言葉を音声翻訳することができる。本体の大きさも通常のイリーと同じなので使い勝手のよさは変わらない。
イリープロの発表会には総務省国際戦略局の職員も来場し、「自分で単語登録できるのが便利」と評価していた(https://iamili.com/ja/inbound/)。また通常のイリーは一般会話辞書しか入っていなかったが、イリープロでは接客辞書も搭載した。
東京中央郵便局は、イリープロの活用で外国人の接客時間を短縮させることができた。
ログバーは、イリープロを100社に使ってもらい実証実験を行った。平均接客時間が10分から1分へと短縮した事例もあった。
さらに、イリープロを使って商品をすすめたときの購入率は飲食店で89%、靴・服店で60%、土産物店で72%という好成績を残した。
また、外国人スタッフを雇用しなくてよくなったことで、月30万円の人件費を浮かせることができた医療機関もあった。
イリープロでは、次のような日本語での声かけも英語、中国語、韓国語に音声翻訳できる。
「アルコール24%以上の化粧品は国際郵便として受け付けることはできません」
「こちらが今月の売れ筋商品です」
「保険証はお持ちですか」「この処方せんで薬をもらってください」
ログバーはイリープロを、インバウンド(外国人観光客ビジネス)需要を狙っている企業に売り込んいく方針だ。
まとめ~あえて高度なものを使わないという高度な戦略
AIには3つの「高い」がある。
まずコストが高い。IT大手は何百億円もの資金をAI開発につぎ込んでいるので、実際のビジネスシーンでAIを使うときも高い使用料を支払わなければならない。
またAIは難易度が高い。開発だけでなく、使いこなすほうにもそれなりの知識とスキルが必要だ。
さらにAIは、敷居が高い。日本の一般家庭や通常のビジネスシーンでワープロ機からパソコンへの移行が始まったのは約30年前だが、そのころかたくなにワープロ機を使い続ける人いた。現代では「まだうちの会社にはAIは早い」「IT化も不十分なのにAIに一気に飛べない」という雰囲気がある。
イリーの魅力は「自動音声翻訳はAIを使わなければ対処できない」という常識をあえて無視したことで生まれた。「3高」を排除することで、消費者の苦手意識を取り除いたのである。
<参考>
- 「Ring」の反省生かし…音声翻訳デバイス「ili」登場(ITmediaビジネス)
http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1701/31/news151.html - 株式会社ログバー
https://logbar.jp/ja/company/index.html - 旅の必需品。私の通訳、イリー(ログバー)
https://iamili.com/ja/ - あなたの旅を変える!旅に特化したオフライン翻訳機「ili(イリー)」の正しい使い方!(ログバー)
https://story.iamili.com/ja/how-to-use-ili - テクノロジーもデザインも、すべては旅行者のために(ログバー)
https://iamili.com/ja/technology/ - iliPRO(ログバー)
https://iamili.com/ja/inbound/ - 一方向翻訳機は実証実験の結果から導かれた(ログバー)
https://iamili.com/ja/oneway/
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