グーグルが開発したTensorFlowは、AI(人工知能)の深層学習開発を効率化させる機械学習向けオープンソースライブラリとして世界中で使われているが、一般の人が、これがどこにどう使われているか知ることはない。そもそもAI自体が、マスコミで騒がれている割には、日常生活のなかで「見える存在」ではない。
しかしTensorFlowは、じわりとではあるが日常生活に姿を見せ始めている。今回は国内でTensorFlowが活用された事例を紹介する。
TensorFlowが腎臓病治療に貢献?
東京共済病院の神田英一郎氏は腎臓高血圧内科の医師だ。神田氏は医療の発展のためにTensorFlowを活用したわけだが、その解説をする前に神田氏が専門にしている治療と、その治療がどれほど重要なのか説明する。
そのほうがTensorFlowの恩恵を理解しやすいからだ。
東京共済病院の腎臓高血圧内科の治療とは
神田氏の専門分野である腎臓高血圧内科は、腎臓病と高血圧の2つの病気を治療する内科である。腎臓は背中の腰のあたりにある臓器で左右2つある。腎臓は血液に含まれている老廃物や毒素を取り出し、尿をつくっている。腎臓がまったく機能しなくなる腎臓病のことを腎不全というのだが、腎不全になると尿が体外に排出されなくなり、体内に老廃物や毒素が溜まり続ける。その状態が数カ月も続けば、人は確実に死んでしまう。
ただ、腎不全に陥っても人工透析という治療を受けることで生き延びることができる。人工透析治療では専用の装置を使う。人工透析装置は腎不全患者の体内から血液を取り出し「濾過(ろか)」によって老廃物と毒素を取り除き、きれいになった血液を体内に戻す。人工透析治療は1日4時間、1週間に3回受ける必要がある。腎不全に陥った腎臓は元に戻らないから、人工透析治療は一生続けなければならず、患者負担が大きい治療だ。
さて、なぜ腎臓高血圧内科は、腎臓と高血圧の両方を診ているのだろうか。高血圧に関連する臓器は心臓であり、心臓と腎臓は離れた場所にある。一見、関係なさそうにみえる。実はこの2つの臓器は、心臓が悪くなると腎臓が悪化して、腎臓が悪化すると心臓がさらに悪くなるという関係にある。腎臓を診る医師が高血圧の治療も手掛けることで、心臓だけでなく腎臓も守ることができるというわけだ。
この重要な治療を東京共済病院で行っている神田氏は、日本腎臓学会に所属し「CKD診療ガイドライン」をつくっている。CKDとは慢性腎臓病のこと。慢性腎臓病が悪化すると腎不全に陥るので、CKDの段階で治療を徹底して腎臓を守る必要がある。
ガイドラインは治療指針であり、「この病気が疑われこうした症状が出たらこういう治療をしたほうがよい」といった内容が書かれてある。このCKD診療ガイドラインづくりにTensorFlowが使われたのである。
CKD診療ガイドラインを改訂する仕事とは
医療用のガイドラインには、専門医向けの超最先端治療を掲載したものもあるが、日本腎臓学会がつくっているCKD診療ガイドラインは、かかりつけ医向けのガイドラインである。街の内科診療所の医師が普段の診療のなかで不明なことが発生したら、このCKD診療ガイドラインを読みそれに沿って治療を行う、というイメージだ。
CKD診療ガイドラインは、いわば街医者の「参考書」のような存在だ。参考書が新たな発見があるたびに書き換えられるように、CKD診療ガイドラインも新しい治療法や新しい薬が開発されたら改訂しなければならない。
神田氏はCKD診療ガイドラインの改訂委員の1人だ。神田氏たちは最新のCKD治療をガイドラインに盛り込まなければならないので、大量の医学論文を読み込むことになった。その数1,000本。それだけの数の医学論文を読み込む仕事は、その道の権威である神田氏たちにとっても「心が折れる」大作業となる。
1,000本の医学論文の評価をTensorFlowにさせた
神田氏たちCKD診療ガイドライン改訂委員会のメンバーは、少なくとも1,000本の医学論文を読み込む必要があると判断した。1,000本は尋常でない数だ。娯楽小説でも1,000冊読むことは簡単ではないが、それが1,000本の医学論文となれば「大量」に「難解」が加わる。
医師にとっても医学論文は難解な内容になっている。なぜなら医学論文は、過去に見つかっていなかったことを発見・開発したときに世界に向けて公表する報告書だからだ。その道のプロでも知らないことが載っているのだ。
しかも昨今は、STAP細胞問題が記憶に新しいが、科学論文のデータ改ざんや不正といった「事件」が東京大学や京都大学や早稲田大学といった超一流大学でも頻繁に起きている。
つまりCKD治療ガイドライン改訂委員会メンバーは、単に論文に「目をとおす」だけでなく、「熟読」し「真偽を見極める」必要がある。さらに論文が「真」であったとしても、CKD診療ガイドラインに掲載すべき価値があるかどうかの判断もしなければならない。
そこで神田氏は、コンピュータやAIの力でこの作業を軽減できないかと考えたのである。
論文を10本に絞り込む
評価すべき医学論文は1,000本あるが、そのうち、次のCKD診療ガイドラインに掲載すべき内容が載っている論文は10本程度にすぎない。そこで神田氏は1次スクリーニングをAIにさせてみようと考えたのである。
スクリーニングとは「ふるい落とし」という意味。1本の医学論文を最初から最後まですべて読み、内容を審査することは大変なので、まずは医学論文の概要だけを読み、そこで「価値なし」と判断したものは、それ以上審査しないようにする、これが1次スクリーニングだ。
医師である神田氏がなぜ「医学論文の読み込みにAIを使おう」と発想したのかというと、氏は疫学の研究にも携わっていたからだ。疫学は、集団の病気傾向や予防を研究する学問分野で、統計学を必要とする。神田氏は統計学を使うときにR言語などのプログラム言語を使った。
神田氏はコンピュータを使って大量の情報を処理、分析、推論することに慣れていたため、AIによる1,000本の医学論文の1次スクリーニングを思いついたのである。
テキストマイニングで価値ある論文を選ぶ
神田氏が注目したのはAI技術のうち、テキストマイニングと呼ばれる手法だ。テキストとは「文章」という意味で、マイニングとは「掘り起こす」という意味である。
つまりテキストマイニングでは、読み込んだ医学論文を単語の単位まで分解し、出現頻度や単語どうしの相関関係などを分析する。神田氏は自然言語処理というコンピュータ解析(テキストマイニング)により、CKD診療ガイドライン改訂委員会メンバーたちが関心を持っている論文を抽出しようとした。
TensorFlowを使えば汎用品で医学論文のテキストマイニングが可能
「難解な医学論文の価値を判断するためにAIを使う」と聞いて、どのようなAIコンピュータを想像するだろうか。人より大きいコンピュータが何百台も並んだスーパーコンピュータだろうか。
神田氏が使ったのはそのような「仰々しいモノ」ではなく、ゲーム用のパソコンとウィンドウズ10だ。つまり神田氏は家電量販店で買えるような汎用品だけで1,000本の医学論文の1次スクリーニングをやってのけたのである。
NVIDIA製GPUを搭載したゲーム用パソコンにTensorflowをインストール
神田氏がゲーム用のパソコンを使ったところはポイントだ。ゲーム用パソコンは、高品質の画像を求めるゲームユーザーの要望に応えようと、格段に進化してきた。
ゲーム用パソコンで使われる画像処理プロセッサ(GPU)で有名なのが、NVIDIA社だ。神田氏が使ったゲーム用パソコンには、NVIDIA製のGPUが2基も搭載されていた。神田氏はこのゲーム用パソコンに、さらにPythonとTensorFlowをインストールしたのである。TensorFlowはオープンソースなので、神田氏でも簡単に入手することができた。
神田氏の「TensorFlow搭載ゲーム用パソコン」は、医学論文を研究の種類ごとに選別し、重要キーワードを検索し、類似論文を分類した。
TensorFlowがここまでやってくれれば、あとは神田氏たち人間の頭脳が医学論部の価値を判断するだけでよい。
医師でも使いこなせるTensorFlowのすごさ
神田氏の「本業」は腎臓病と高血圧の治療である。つまり今回紹介した事例は、AIの専門家ではない人でも、AIを使いこなす時代に突入したことを意味している。
TensorFlowがオープンソースであったから、それが可能になった。「AIの知」を気軽に共有できたからこそ、AIが日本の腎臓病治療に貢献することができたのである。
<参考>
- 医師が論文検索に「TensorFlow」活用、人間なら心が折れる作業も深層学習で効率化(TechTarget)
http://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/1801/11/news03.html - 人工知能のビジネスへの活用法(TensorFlow活用例)(OSS&Cloud)
https://www.ossnews.jp/closeup/articles/?aid=201703-00001 - 世界中で利用される機械学習向けのオープンソース「TensorFlow」とは何か(NISSEN DIGITAL HUB)
TensorFlowのメリットやその特徴、周辺サービスについて説明する。また、今後の拡張の方向についても紹介する。 - テキストマイニングにおける人工知能(AI)の活用(ITトレンド)
https://it-trend.jp/textmining/article/use_of_ai - 慢性腎臓病って何?(東京共済病院、腎臓高血圧内科部長、神田英一郎)
http://www.tkh.meguro.tokyo.jp/wp-content/uploads/2016/11/6th_iryokoenkai.pdf
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